by Orient-Express
歴史

歴史

第二次世界大戦では多くのダメージをこうむり、吹雪の日には車内に閉じ込められたり、オリエント・エクスプレスの歴史は、数々の伝説で彩られています。

現在世界的に知られるベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレスを形づくる客車には、それぞれに歴史があります。様々な鉄道会社によって運営されながら、長い間ヨーロッパの主要都市を走ってきました。

“豪華な”列車の旅の歴史は、1864年まで遡ります。列車の製造に取り組んでいたジョージ・モーティマー・プルマンが、イギリスで19世紀の技術をふんだんに駆使して列車を製造し、その列車はヨーロッパでは類をみない優れたものとなりました。

1870年代、イギリスで最初の寝台車及びパーラー車が運行開始となり、初めて列車内で食事が提供されました。ヨーロッパで最初のプルマン列車は、プルマン特別急行で、1881年に運行を開始しました。


それはロンドンからブライトンを走るもので、初めて電気のイルミネーションが施された列車でした。その後すぐに、列車とフェリーを接続することで、ジョージ・モーティマー・プルマンはロンドンからパリを結ぶ快適で安全な列車旅行を現実のものとしました。

若いベルギー人の鉄道愛好家であったジョルジュ・ナゲルマケールスも、豪華客車を製造し、徐々にその列車はイギリスのプルマン列車のようにヨーロッパ大陸全土で展開されました。 1881年、何度かの試験運行をした後、ナゲルマケールスはヨーロッパ大陸で最初の食堂車を導入しました。
寝台車と食堂車をつけることで、ナゲルマーケルスはついに1883年10月4日、最初のオリエント・エクスプレスの開通をするという長年の夢を果たします。当初のルートはパリからストラスブール、ウィーン、ブダペストそしてブカレストを抜けてルーマニアのドナウ川対岸の街ギュルギュまで行くものでした。

世紀が変わり、列車の黄金時代は大きく揺れることとなります。当時世界最長のシンプロン・トンネル(20㎞)が1906年に建造され、パリからベニスへの旅行が著しく短縮されました。1921年にはオリエント・エクスプレスはシンプロン・オリエント・エクスプレス・ルートとしてイスタンブールまで運行することになりました。

1920年代から1930年代にかけてこの伝説の列車は全盛期を迎えましたが、それは第二次世界大戦が始まると徐々に下火となり、フェリーの運航はキャンセルされ、国境を越える旅行は不可能となりました。飛行機での旅がさらに早く、そして安くなっても、オリエント・エクスプレスは1977年5月まで運行しましたが、最後の列車はボロボロになった寝台車と客車3台だけという形で打ち切られました。



ミステリーと陰謀

オリエント・エクスプレスはフィクションと実際の事件の両方で、様々なミステリーや陰謀の舞台となりました。最も有名なのは、探偵エルキュール・ポワロが乗客の殺人事件を調査するというアガサ・クリスティの小説、『オリエント急行殺人事件』ではないでしょうか。ハリウッド映画では、アルバート・フィニーがポワロに扮し、その一部は実際の列車の中で撮影され、その他はスタジオに作られた列車のレプリカで撮影されました。

六つの活動映画が撮影されたベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレスが最近関連した映画は、『102』で、悪役クルエラ・デ・ヴィルが映画の中でパリに逃亡する際に使われるという設定になっています。また多くの著作が列車について出版され、「オリエント・エクスプレス変奏曲」という曲も作曲されています。

伝説の復活
様々な伝説で名高いこの列車は、実業家で列車愛好家であるジェームズ・B・シャーウッドによって救われました。1977年、モンテカルロで行われたサザビーズのオークションで2台の客車を購入しました。それから数年後、彼は30億円もの費用を費やして、35台のヴィンテージ寝台車、プルマン客車及び食堂車を購入、復元しました。

1982年5月25日、ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレスがロンドンからベニスまで運行を開始したことで、伝説は蘇ったのです。今日、輝かんばかりのベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレスの客車は、ヨーロッパ中を最高級の風貌で駆け巡り、世界で最もロマンチックな旅を皆様にお届けしています。